今日の父は元気!

朝から270gもOS-1を飲めたし、目をパッチリ開けて、ニコニコすることが何度もあった。


朝から、薬入りゼリーもパカッと口を開けて食べてくれた。


今日は久々に、エンシュアやラコール以外の食事もいけるかも?
とおじやをもっていったら…


私がスプーンにすくったおじやを
「フーフー」している間で、催促するように口を開けてくれ食べてくれた!
パクパクと、六さじ食べられた。
久々にすごい!

「美味しい?」
と訊ねると嬉しそうな顔で頷く父。


久々のことに、本当に嬉しくホッとした。



まだ便通がないことは気がかりだが…

今日はお腹がグルグルいう音が聞こえたから、そろそろかな…と期待。



とりあえず、発熱の消耗からは回復しつつあるようだ。


「笑えた」
「食べられた」

だけで、こんなにも幸せな気持ちにしてくれる父に感謝。


普段の生活でも、当たり前のようなことに感謝の気持ちがわく。


まぁ、毎日凹むことがないわけではないが

そんなとき
「でも、幸せだ」


と思うように…思わなくては、という気持ちになる。



私は以前身体を壊して、自分で食事もとれないほど、ほぼ寝たきりになった経験がある。
全身アトピーになったのだ。頭から爪先まで、耳の中まで爛れた。ちょっと動くだけでも痛くて痒くて、箸をもつこともできず、食事のために口を開けることすら辛かった。
食事は母に食べさせてもらっていた。


その時のことを思うと、日常の何もかもが幸せに感じる。


今となってはこの経験のお陰で、ちょっとのことに幸せを感じる能力が身に付いたと思っている。

そして、身体が辛いかもしれない人に対して、共感できるようになった。(これは勝手な思い入れだが)


自分が身体を患う以前は、病気の人…辛そうな人に対しては

「よくなりますように〜」とは思っても、

それはもしかしたら

随分上からみていたような
「可哀想に」なんて感情だったかと思う。無意識の高慢ちき。



自分が患ったあとは

やはり、よくなりますように、とは思うが

それに堪えている方への尊敬の気持ちが先にわく。
しかし「それは当然」との思いもある。


なんといったらよいか…
「可哀想」で許されたり、または褒め称えられたりするのは違うと思うようになった。
パラリンピックで「感動をありがとう」とか、気持ち悪いと。



父は、薬を飲むのはイヤなこと。
だけど、頑張ってまだ、飲めるだけの能力はある。
だから、能力は最大限発揮してもらう。
そこを頑張ってもらうことに対しては
「可哀想」
なんて思うのがかえって失礼な気がするのだ。


父は、頑張ってくれている。「ありがとう」と感謝。
「無理」が「無茶」になったら止めるが

「無理」を応援するのも、家族なりの愛情だと思っている。


もはや「義務」の薬に関してはそうだが


その分、食事や水分は、なるべく無理せず美味しく摂れる工夫をしたいと思う。


長々つらつら書いてしまったが


まだまだ、父に
「頑張って〜!!」
と言ってしまうことに理由づけをしてみた。