「楳図かずお大美術展」に行ってきました
私は子どもの頃、隣の隣に住んでいた友と、学校から帰ってくると毎日のようにお互いの家で遊んでいた。
子供は与えられずとも色んな遊びをつくり出すものだが
私達のあいだで一番お気に入りの遊びは
「漂流教室」「洗礼」の漫画のセリフを感情を込めて言ったり、登場人物になりきってお芝居をする楳図かずお漫画ごっこだった。
繰り返し繰り返し「おれのパンだっ!」とか「これはさくらの脳みそよ!」と叫んでいた。(今読み返してみると、実際描かれていないセリフも結構言っていた記憶がある。なりきってアドリブも加えていたようだ。とくに関谷さんになりきるのが私たちのブームだった)
その友と「楳図かずお大美術展」に行ってきた。
私たちの子ども時代の中心にいた楳図先生。恩師に再会したような気持ちになった。
楳図先生が新たに新作を描いた!という。
その「わたしは真悟」の続編は101点連作絵画。
一枚一枚が作品として素晴らしい絵画でありながら、漫画…お話の一コマとなっている。
新作は「わたしは真悟」の続編と知ったときに、
スピリッツ連載時以来、久々に読み返した。
正直にいうと、当時は理解が及ばない部分もあり
圧倒的な迫力をただ楽しむ感じで、泣く、というような気持ちではなかった。
私が楳図作品で一番泣いたのは「漂流教室」の池垣くんのシーンだ。(死にそうにやられてもみんなのために怪虫に果敢に挑む)それをうわまわることはあるまいと思っていたが
はたして…今回の再読で私は「真悟」で号泣した。
若い頃、まだ子どもだった私には作品に描かれる尊いものがわかっていなかった。
なんでこんなに泣いてしまうのか。
それは真悟の、さとるやまりんの「一途」さだ。
こうして私は、まず、産業ロボットの取材に入りました。私が訪れた彼等・ロボット達は、どれも、ひたすら、黙々と、指令に沿って、寸分の狂いもなく働いていました。指令に忠実に働く彼等を見ていると、その忠実さ故に、冷い機械というよりもむしろ、親しみを感じるのは、そこに人間に似た動きを見たからでしょう。インタビューを受けていただいた皆様の返答の中で共通している言葉がありました。それは、日本で、なぜロボットが隆盛に成り得たか………という問いに対して、日本人は木や草にも情をかけることができるからだ、ということです。胸に染みる言葉でした。そして私は、いよいよ次号より、胸いっぱいにふくらんだ情念をぶつけることになります。言葉では言い現わせない、熱い想いと感動を伝えたい。
これは、楳図先生がスピリッツ上で連載開始前に語ったことば。
※(楳図ファンのバイブルのような、半魚文庫さんのサイトに掲載のものを参照させていただきました)
黙々と、忠実に…
真悟は本当に忠実に、さとるの言葉をまりんに届けようとする。機械だからこその、その忠実さ。
いじらしいまでの狂いのなさ。
二人の子どもとして「一途」。
さとるとまりんが子どもを作ろうと東京タワーをのぼるのは普通に考えるとわけがわからないけれど
その目標(指令)のためにはまた、さとるもまりんも狂いなく(30センチのためにランドセルを積んだり)忠実だ。
どちらもありえない。でも、さとるとまりん、真悟の世界では真実なのだ。
必死だ。一途だ。
大人になってしまって、その一途さがありえない世界にいるからこそ強烈な憧れを持って泣いてしまう。なんて美しいんだろう。
そんな「わたしは真悟」の世界が
今回の101点の物語の中で続いていた。
絵自体の美しさはもちろんだが、やはり真悟のもつ美しさ(狂いのない忠実さ)その一途な一念を感じて涙した。真悟が懸命に伝えようとしていたものは繋がっていたんだとわかって嬉しかった。
陳腐な表現になってしまうが
楳図先生は天才なんだとあらためて思う。
素晴らしい展覧会だった。
カフェでさくらのソーダをいただいた。
さくらの脳みそがのっていた!
さくらの姿のウエハースがついているが、
あれは、さくらのお母さんのウエハースにして、
脳みその上に挿して足で踏むシーンを再現するべき!
「これはさくらの脳みそよ!」のセリフを何度も叫んだ友との共通意見だ。
それから「関谷さんのパン」を売ってほしかった!
と、やはり私たちのお気に入りシーンを語り合い
久々にセリフを言い合った。